高齢者等終身サポート専門行政書士の森です。
今回は、当事務所の依頼者ではなく、私の知人の出来事を事例として取り上げます。「(上)」として事例をお知らせし、次回「(下)」として、この事例に関して、少しだけ深掘りしたコラムをお伝えします。(なお、個人の特定を避けるため、事実関係の一部を修正変更しています。)
【創業家の背景と家族構成】
本事例の舞台は、創業50年を超える老舗企業である。創業者であり会社会長(先妻とは死別)を務めていたY氏は、85歳にしてなお精力的に経営に携わり、業界内でも広く知られる存在であった。彼は一代で事業を築き上げた「たたき上げ」の経営者であり、その存在感は会社と家族の双方にとって大きなものであった。
家族構成は、現社長である長男X氏(64歳)を中心に、後妻であるA子夫人、先妻との間に生まれた長女B子さんと次女C子さん、そして後妻との間に生まれた三女D子さんという形である。いずれの家族も人格者として周囲に評価されていたが、それぞれの境遇や生活状況には差が見られた。
遺言をめぐる思いと父の急逝
現社長のX氏は、父であるY氏に遺言書を作成してほしいと考えていた。しかし、父の性格を知るX氏は、遺言を求めることでかえって家族間に軋轢を生むのではないかと危惧し、その思いを口にすることができなかった。Y氏本人も「100歳まで現役で仕事を続けられる」と信じており、死後の財産承継については深く考えていなかった。
そんな矢先、Y氏は会議の最中に突然、脳卒中で急逝する。企業においても家族にとっても予期せぬ出来事であり、ここから遺産分割をめぐる動きが始まった。
一時的な平穏と亀裂の兆し
当初、後妻のA子夫人は「すべてXさんのものにすればよい」と発言し、他の妹たちも異を唱えることはなかった。創業家においては、長男であるX氏が事業を承継することが自然だと考えられていたためである。しかし、C子さんの夫が「もらえるものは正当に受け取るべきだ」と口にしたことで、雰囲気が一変する。
それまで沈黙していた妹たちも次第に同調し、法定相続分に基づいた取り分を求める姿勢へと変わっていった。人格者と称される家族であっても、外部の意見や利害が介在すると、相続に関する考えが揺らぐことは少なくない。
現社長X氏の決断
もめ事を極端に嫌う性格のX氏は、事態の収拾を最優先と考えた。しかし会社には現金が乏しく、相続人に分配できる余裕はなかった。そこでX氏は、銀行からの借り入れを行い、法定相続分に基づいて遺産を分割するという案を提示した。
この決断により、相続人たちの不満は収まり、遺産分割協議は円満に成立した。X氏の対応は、会社の経営継続を守りつつ、家族関係の破綻を防ぐための現実的な選択であったといえる。
遺言の不在がもたらす教訓
今回の事例で明らかになったのは、遺言の不在が相続の場に「争族」を招くリスクである。Y氏の生前、家族は和やかな関係を保っていたものの、死後に利害が絡むと一転して対立が生まれた。これは決して珍しいことではなく、多くの家庭で見られる典型的な相続トラブルの構図である。
X氏自身、父の遺言が存在しなかったために大きな負担を背負うことになった。その体験を通じて、X氏は自らの世代においては早期に遺言書を作成し、次の世代に同じ苦労をさせないと固く心に誓ったのである。
まとめと示唆
本事例は、創業家における相続問題がいかに複雑でデリケートであるかを示している。相続人全員が人格者であっても、相続財産の分配をめぐる利害が表面化すると、家族の和は簡単に揺らいでしまう。とりわけ、外部からの意見や配偶者の影響は大きく、当事者間の合意を難しくすることも多い。
また、経営者にとっては「事業承継」と「財産分与」という二つの問題が重なるため、より慎重な準備が求められる。遺言の作成や事業承継計画の策定は、残された家族や従業員にとって不可欠な安心材料となる。本事例は、遺言の重要性を改めて認識させる象徴的なケースであるといえよう。
次回「下」で、本事例をもう少し深掘りします。